仕事をする上で、「心が弱い」ことについて

溜まっているものを吐き出すだけの記事なので、見る価値はない。ただつらつらと書き綴る。僕は仕事でミスをすると思考が止まり、手が震え、汗が出てどうしようもない強い不安にかられる。表情が曇り、事情を知らない人に心配される。おそらく表情に出てしまっているのだろう。世の中には「ハートの強い人」という人がいる。僕はそういった人たちを心の底から「羨ましい」と思う。「ハートが弱い」ということが仕事をする上で障害があったかを自分なりに分析したので書き綴っていく。ただし、最終的に「これ」という解決方法が見つかったわけではないので、そういう救いを求めてる人はがっかりするかもしれない。

症状の出始め

25歳頃、僕は仕事で大きなミスをした。客に呼ばれ、一人で謝りにいく。10人ぐらいに囲まれて責められる。僕は謝る以外何もできない。人は弱い者を見つけるとこれでも気が済まないのか、というぐらい責める。責められるたびに、心臓が握り潰されそうになり、汗が出て手が震える。現場の人も僕に対し恨み言を言う。責め続けられ、とうとう僕は壊れてしまった。

症状の進行

僕はほどなくして心神喪失状態に陥り、休職することとなった。その際、通った精神科では、P.T.S.D(心的外傷後ストレス障害)と診断された。抑うつに対する薬も処方され、副作用に苦しみながらも飲み続けた。だが、抑うつのそれ以上に自分の体に変化が起きた。それは「とてつもなく強い攻撃性」だった。

激しい怒り

人は仕事をする上で誰かと衝突することはどうしてもある。とはいえ、通常であれば衝突したところで落とし所を探し平和的に解決していく。どうしても相容れない場合は距離をとり関わらないようにする等が一般的だと思う。もともと僕は争いごとは嫌いで折れることの方が圧倒的に多かった。だが、P.T.S.D.以来、「キレる」ようになった。机を蹴り飛ばし怒鳴った。壁に穴を空けるほど暴れる。「落ち着け」という言葉は耳に入るのだがどうしようもなく「怒り」が湧いてくる。それだけの「怒り」を出す時には僕は自分の体さえ省みることはできない。手は赤に染まっているにも関わらず、「痛み」よりも「怒り」を優先してしまう。ギリギリのところで暴力を人に向けないように、方向をかえていた。

悪夢

悪夢を見る。周りの人がどのような悪夢を見るかは僕はあまり知らない。高いところから落ちたり物を無くしたりするものだろうか。当時、僕は「殺し、殺される悪夢」をよく見ていた。仕事で失敗した僕を責め続けた彼等を、暗い部屋で僕は馬乗りになって刺す。後ろから別の人間が襲ってくる。僕はその気配を感じ取り、飛びつき、喉元に噛み付いて息の根を止める。そして別の大きな人間に腕を掴まれそこで悲鳴とともに目が覚める。そのような悪夢に5年ほど悩まされていた。

「怒り」についての分析

「怒り」はどこからやってくるのか、について考えてみた。「怒り」が出ている時、僕はアドレナリンが異常なぐらい出ているのではないかと考えている。怒り狂った後は、ギラギラして眠れない夜が続き、腹が減ることもない。ほどなくして「大きな脱力感」に襲われる。脱力中はトイレに行くことすらつらく、起き上がることができない。そこで、僕はこれは動物で言う「命の危機」を感じてたからではないかと考えた。ネットで調べた知識で申し訳ないが、アドレナリンがでると活動的になり、腹が減らなくなる。カモシカが肉食獣に襲われる時、走って逃げる。その時にはのんびり飯など食べていられない。走って逃げるために活動的になる。この状態と似ているのではないかと考えた。つまり、僕が「怒り」を感じている時は「命の危機」を察知し、それに対する反応なのではないだろうか。

「命の危機」についての分析

普通、一般社会で生活している上で「命の危機」を感じることはおそらくそう多くはないと思う。僕は幼少期にこれを「強く」感じることがあった。それは「塾」だ。小学校から中学校まで、僕は塾に通っていた。その塾は「スパルタ」で有名だった。20歳を過ぎてわかったことがある。余談ではあるがスパルタ塾について書き綴る。「スパルタ塾」というのは高確率で存在し、その目的は「大人が都合良く子供をコントロールする」ために他ならない。子供に恐怖心を植え付け、コントロールし勉強をさせる。子供というのは落ち着きがないものだ。いろんな好奇心や興味を持ち、それは勉強以外のものであることが多い。スパルタ塾を経営する大人達にとってそういう好奇心や興味は邪魔なのだろう。

「スパルタ塾」でどのようなことがあったか

ほぼ大部分の生徒は一度「注意」を受ける。「注意」なんていう言葉ほどかわいいものではなく、壁に叩きつけられたり角に頭をぶつけられたり、教科書で「頭の形が変わるんじゃないか」というほど殴られる。一度でもそういう恐怖心を与えた生徒は従順になる。僕も一度宿題を忘れてしまった時に思いっきりドアに叩きつけられた。今でも鮮明に覚えている。他の生徒が窓の桟に頭を叩きつけられて流血したり、机に頭を叩きつけられているのを覚えている。この経験がまさに「命の危機」だったのではないだろうか。

家庭ではどうだったか

両親は僕のことを「甘やかした」と言っている。事実そうだったと思う。この「甘やかした」という事実について両親は笑いながら話す。僕は軽く笑いながら「そうだね」と答えている。が、そう答えながら「ちゃんと叱られることに慣れたかった」と心の底から思っている。姉で失敗した経験からか、「僕に対する教育」に関しては放棄気味ではあった。そのため、「買い与える」「わがままを聞く」ばかりで「教育」をきちんと受けたことがない。事実、僕は「家の人に宿題を見てもらう」経験が無い。食べ方についても指導は受けていない。両親に対し恨みはないが、僕はもう少しちゃんと「教育」を受けたかったな、と時々思う。

なぜ仕事での弊害が起きるか

「命の危機」を感じると強烈にアドレナリンが分泌され、その諸症状が出る。その後、とてつもない脱力感に襲われるのだが、この「脱力感」というのは草食獣が「食われるその瞬間に苦しみから解き放つ」ものだと考えている。一般的な仕事では基本的には「命の危機」は起きない。が、ごく稀に僕のような体験をした人間が「命の危機」と捉えてしまい、アドレナリンが分泌されやすくなっているのではないか、と想像している。

どう解決するか

冒頭でも書いたが、すごい解決策があるわけではない。ただ、「こうした方がいいかもしれない」と思いつくものを書き連ねる。

よく言われる「別に死にはしないよ」

これが答えなんだろうな、と思う。実際に何度か言われている。一般社会で、仕事で失敗して「命の危機」になるものは、既にとてつもなく対策されている(ex. 工事現場など)。ただ、ここで言う「命の危機」というのは「取引先の相手が怒ったことによって命の危機が訪れる」という意味で、そういうケースはほとんど無いだろう。逆にそれがもしあるのであれば、その会社は社会的にかなりまずいと思うし、駆逐されているはずだ。なので深刻に捉え過ぎない、が大事だ。たぶん真っ先に考えるべきことなのだろうと思う。

訓練をする

大きく捉え過ぎない訓練をするために、認知療法に取り組みつつ、失敗して怒られることを繰り返してみるのもいいかもしれない。ただ、心には負担をかけるので、医師と相談しながら進めるのが良いだろう。実際、僕も医師と相談して進めてみたいと思っている。

「心が弱い」ことを公言しておく

どうしても無理な場合、そういう状況になった時、助けてもらえるように先に公言しておく。良心的な会社ではそれを前提に配置してくれるだろう。もし、そういう対策をしてもらえない会社であれば無理に居残る必要はなく、転職しても良いだろう。「甘えるな」と言ってくる人もいるだろう。彼らが責任を取れるわけではないので、別に耳を貸す必要はない。そういった人たちと関わると、後々、余計な「怒り」を蓄えることになるので極力関わらない方がいい。

最後に

僕はもう中年ではあるが、未だにこういったことで苦しんでいる。端から見ればとてつもなくくだらないことであるだろうが、僕にとっては「忌むべき性質」だ。この性質で、いろんなことが犠牲になった。もし、こうでなければ僕は「明日怒られる。失敗する。」という陰惨なことばかりを考えずにもっと創作活動ができるだろう。時として人間は誰かに表沙汰にならない傷を背負わせることになるんだな、と改めて思う。